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現在教育理論の魁 [心理学]

 発達心理学の領域は、20世紀の大半を通じてジャン・ピアジェによってリードされてきた。ピアジェは、幼児の思考がどのように発達し、どのような段階を辿って成熟してゆくのかの解明を志し、それは環境を探検しようとする自然な好奇心の産物だと考えた。ピアジェの理論に続いて直に英語圏に紹介されたレツ・ヴィゴツキーの理論は、幼児は経験を通じて意味を発見すると主張したが、その際に「経験」という語の意味を拡大して、文化的経験と社会的経験もその中に含める事を提案した。ヴィゴツキーによれば、児童は主として他者との相互作用を通じて学習する。

 「認知革命」に弾みが掛ったのは、1960年代のこの頃の事だった。心的過程は、徐々に「情報処理過程」としての脳と言うアナロジーによって説明されるようになってきた。ジェローム・ブルナーは、この新たなアプローチにおける主導的存在の1人だが、それ以前には私達の欲求と動機が知覚にどう影響するかを研究し、私達は自分が見たいと望むものを見ると言う結論に達していた。次いでブルナーは、認知がどのように発達するかに関心を示し、幼児における認知過程の研究に着手した。


処理過程としてのこころ

 ブルナーは、認知モデルをピアジェ及びヴィゴツキーの考えに適用して、認知発達の研究における力点を意味の構成から情報処理(即ち、私達が知識を獲得し貯蔵する仕方)へとずらす事から、その探究を開始した。ブルナーは、知識の獲得は経験的過程と見做す点では、ヴィゴツキーに倣っていた。ブルナーの言う所では、学習は単独で進められるものでは有り得ない。何等かの形での指導が子供の発達には不可欠だ。だが、「誰かを指導する事…は、単にその結果を当人の心に伝達させる事に尽きるのではない。寧ろそれは、過程において先を予想する態度を子供達に教える事だ゛」。何代、そうする事でこそ、知識に意味が与えられる。認知心理学の観点からするなら、推論は「情報処理過程」と見做される以上、知識の獲得は生産物でも最終結果でもなく過程と見做されなければならない。こうした過程において私達に必要なのは励ましと指導であり、ブルナーの考えでは、それこそが教師の役割だ。

 「教育の過程」(1960年)でブルナーは、子供は教育の過程に対する能動的な参加者となる必要があるという考えを提示した。本書が決定的な引金になって、行政のレベルにおいても学校の先生のレベルにおいても、アメリカ中の教育理念が変容した。

 しかし、筆者は米国教育理論が正しいとは思わない。現実に今日活躍している藤井聡太7段が5~6才に倣い覚えた将棋の基礎知識を活用しているが、凡人の我々は5~6才に覚えた筈の知識は、霧散している。そして、殆どの人々は小中学校で習った事さえ覚えてはいない。然るに、何時覚えるべきか、現在の教育理論こそ間違っていると唱えたい。筆者は真に知識欲のある臨界期にこそ教育を施せば、藤井聡太7段のように活用するのではと考えている。現在の教育は間違っていると唱えたい。

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進化したい脳 [心理学]

  1920年代に、少なからぬ心理学者達が学習と記憶に関する問題への解答を求めて、神経科学へと転じた。その中でも、取分け目立ったのがカール・ラシュレーで、ラシュレーによって神経結合が果たす役割の検討への道が開かれた。だが、連合学習の過程で実際に何が起っているのかを説明する理論を定式化したのは、ラシュレーの学生であったカナダの心理学者ドナルド・ヘップだ。

 ヘップによれば、神経細胞同士が連合するのは、それらが同時的かつ反復的に活性化する時だ。その時、シナプスないし連結がこの結合を更に強化する。何度も実験した結果、「セル・アセンブリ(細胞集成体)」即ち連結された神経群のグループが脳内に形成された神経群のグループが脳内に形成される事が解った。この理論は、屡々「同時に発火した細胞は同時に結びつく」と表現される。同時に、分離状態にあるセル・アセンブリーでも連結が為されると、私達が思考過程として認識する「一連の局面」が形成される。

 ヘップは、この連合課程が幼児期(即ち、新しいセル・アセンブリーと一連の局面とが形成途上にある時期)の学習で、取分け顕著に認められるのに気付いた。その著書『行動の機構』(1949年)で、ヘップは足音を聞く赤ん坊の例を挙げている。この場合、足音は赤ん坊の脳内の数多くの神経を刺激する。同じ経験が繰り返されると、セル・アセンブリーが形成される。その結果、「赤ん坊が足音を聞くと‥‥アセンブリー(集成体)が刺激される。このアセンブリーが依然活動中に、赤ん坊は顔を目にし、自分を抱上げる腕を感じる。これが別のアセンブリーに興奮を齎す(その結果、『足音アセンブリー』は『顔のアセンブリー』及び『抱上げられるアセンブリー』と連合する。この後では、赤ん坊が足音を耳にしただけで、これら3つのアセンブリーに興奮が齎される)」。だが成人の場合、学習は新しいアセンブリーの形成には向かわず、既成のセル・アセンブリーと一連の局面の再調整に向かう傾向を持つ。

 ヘッセのセル・アセンブリー理論は、今では現代の神経科学の土台となり、神経学習についてのヘップの説明は、ヘップ式学習として知られているが、今尚受入れられているモデルだ。

 今、筆者は「聡太の脳」で記事を連載し続けているが、その見地から「赤ん坊」を「進化したい脳」と読替えるべきだ。


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ツァイガルニク効果 [心理学]

 ロシアの心理学者ブルマ・ツァイガルニクは、ベルリンで博士課程の為の研究をしている間に、指導教授であったクルト・レヴィンから、ウェイターは既に支払いの終わった注文の詳細よりも、未だ支払いの済んでいない注文の詳細の方をよく覚えていると言う観察を聞かされた。これを聞いたツァイガルニクは、未完の課題は完了したそれとは違った位置を記憶の中で占めている為、より良く覚えられるのでは無いかと考えた。そこでツァイガルニクは、被験者に簡単なパズル乃至課題を与える実験を考案した。但し、被験者はその課題を半分終えた所で中断させられる。後になって、自分のやった行動をどれ位覚えているのか尋ねられると、それが最終的に完了させるか否かには関わりなく、中断された課題の詳細の方が2倍は良く覚えられていた。この理由は課題が完了していない為、記憶が異なった風により効果的な形で貯蔵されたからではないかとツァイガルニクは推論した。

 この現象は、後に「ツァイガルニク効果」として知られるようになるが、重要な示唆を含んでいる。ツァイガルニクの考えでは、学生、取分け子供は学習中に頻繫に中断を入れられた方がよりよく記憶する。だが、1950年代になって記憶が改めて中心的な研究主題に返り咲く迄は、その考えは殆ど注目されなかった。それ以降は、ツァイガルニクの理論は、記憶の理解における重要な一段階と見做されており、教育のみならず、広告やメディアといった領域でも、広く応用されている。

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本能は力動的なパターンだと主張したヴォルフガング・ケーラー [心理学]

  19世紀後半に、当時支配的であった思想の流れに同意できなかったドイツの心理者グループが、後にゲシュタルトと呼ばれる事になる。科学的で明確に全論的な特徴を備えた新しい手法を発展させた。マックス・ヴェルトハイマーとクルト・コフカと共に新しい運動を立ち上げたヴォルフガング・ケーラーによると、この語は「パターン」を意味すると同時に、 彼らの理論に適用される場合には「組織化された全体」を意味する。ゲシュタルト心理学(大分後になって登場したゲシュタルト療法と混同してはならない)は、知覚や学習、認知といったといった概念は研究されるべきで、それを構成する隅々の部分を探究する形で研究されてはならないとの出発点としていた。

 ケーラーの考えでは当時の心理学の主流であった行動主義は、余りに単純で、知覚のダイナミック性質を見底なっいる。パヴロフとソーンダイクは、動物は単純な刺激-反応の条件付けを通じて、試行錯誤を経て学習すると主張したが、ケーラーに言わせれば、動物には洞察能力と知能がある。この考えをケーラーは、1913年から1920年にかけてテネリフェ島の類人猿研究所の所長をしていた時に、テストする機会を持った。一連の問題解決課題に取組むチンパンジーを研究した。


洞察にもとづく学習

 ケーラーの考えは観察によって裏付けられ、問題解決と学習はゲシュタルトの観点から説明可能である事が明らかとなった。手の届かない場所にある食餌に手を伸ばすといった問題に直面した場合、チンパンジーは最初は試みても上手く行かないのでフラストレーションを示すが、暫く間を置くと、状況の再検討を行って、ある種の解決法を試行する。ここには食餌に到達する為に、チンパンジーの居る場所の周囲に転がっている棒や木箱といった道具を用いる事も含まれる。その後、同じ課題に直面すると、チンパンジーは立ち所に同じ解決法を適用する。ここからケーラーは、チンパンジーの行動は現にある過程というよりは認知的な試行と錯誤の過程を示していると結論した。チンパンジー達は先ずここからケーラー心の中で問題を解決し、洞察を得た(「ああそうか」体験の瞬間)後漸く、自分達の解決法を試行する。頃れは、学習は刺激に対する反応によって条件付けられており、報酬によって強化されると言う行動主義者の見解とは対照的だ。チンパンジーは、報酬を受け取る事によってではなく問題を知覚する事で学習する。

 これがケーラーによる行動の力動的モデルの例証となった。それは報酬に対する反応と言う受動的学習ではなく、知覚における組織化を含む。錯誤や休止、知覚、洞察、試みと言った契機を含む、洞察による学習パターン(ゲシュタルト)は、能動的なものだ。しかし、だからと言って問題を解決しようとしているチンパンジーの個々の試みが見ている観察者に対して明白な事だという訳ではない。その主たる理由は、チンパンジーの心の中で生じているはずの知覚の組織化を見る事はできないと言う点にある。訳ではない。私達が本能と呼ぶ、問題の解決に対する一見した所自動的に思える応答は、洞察による学習というこの過程に影響されたものであり、それ自体が能動的で力動的なパターンだ。

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フロイトから始まった精神分析学による心理療法 [心理学]

フロイトの夢判断による人の無意識への主張は、イギリスが東インド会社統治により、福産物として仏教思想がヨーロッパへ流れ込み、実存哲学が生れ、無意識を定義する唯識思想が流れ込んで来た事が大きかった。
キリスト教には全ては神の意志であり、無意識の存在は無かったが、精神分析学会の設立へと繋がった。
その潮流は、20世紀初頭にかけて、何れも無意識の考え方を拡張してアルフレート・アドラーが個人心理学を立上、娘のアンナによる超自我の思想へと繋がり、ユングは原型思想を推し進めた。
フロイトの思想は、次々と出てくる精神分析学者の力点をずらす修正を受けながらも、発展を遂げた。
行動主義の対極として出発した精神分析学会だったが、米国では生産的思考へと思考が変化し、新たな心理療法として、真実としての責任を引受ける自己肯定へと向かい、米国精神分析学会設立に至る。
第二次世界大戦の終結を受けて、戦争への反省から、政治と融合するアブラハム・マズローとカール・ロジャースやロロ・メイによってクライアント中心療法から合理情動行動療法を経て実存心理学が自己実現の定義へと至る。
それはやがて無意識の定義を揺るがし、抑圧されたものでは無いと言う考え方から認知心理療法が生み出される。
フロイトの精神分析から数十年の歳月を経て、認知療法から人間性心理療法を通じて心的健康の治療における改善を可能にし、無意識や私達の衝動、行動を考えるモデルが確立された。
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父親は無言のルールに服していると主張するギー・コルノー [心理学]

 フランス出身のカナダの分析家ギー・コルノーが、1991年に『男になれない息子たち』を公刊する迄は、心理学は男性同士の情動的コミュニケーションには殆ど関心を示さなかった。コルノーの著作は男性の世代間での親密な会話の難しさを検討した。それによると、その狙いは自分の父親との情動的結びつきを作り出す事にあった。手を差し伸べて是認を求めても、帰ってくるのは沈黙だけだった。


賞賛を抑制する

 コルノーも認めているように、こういった成行は男性にありがちなパターンだ。男性は往々にして、息子に賞賛や愛着、承認を与えるのが下手だ。息子はこうした沈黙を経験すると、強い印象を与えようと更に頑張ったり、或は逆に撤退したりする。だが、沈黙は取消難く子供の心に刻み込まれる、とコルノーは指摘する。こうした現象は、男性の自我同士の間での競合的な相互作用に由来するのかも知れない。自分の息子に惜しみない賞賛を与える父親は、何処かで自分のパワーを抑えて、余り押出さないようにしているのだろう。息子の観点に立つなら、少しの抑制に無しに余りに簡単に賞賛を得られると、もはや父親は強い印象を残す存在ではなくなる。殆どの社会形態において、男性が強くて同時にオープンである事は有り得ないという信念が認められる。

 コルノーに言わせれば、こうした行動こそが男性に仇なす元凶だ。この為、男性は自分の息子に自分の感情を表明する機会を失ってしまう。その結果、息子の方はそうした感情を受取る事なしに進む事を余儀なくされるのだ。

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抑鬱状態回避にドロシー・ロウからの提案 [心理学]

 もし人々が人生の突発時に愚痴るのを止めれば、抑鬱の割合は一挙に減るだろう。この前提が、ドロシー・ロウの成功の根拠だ。

 私達は成長過程で、世界とは公正で理に適った場だと思い込んでゆく。だから、自分が善人なら、自分には良い事が起ると思う。だが、私達が善人で物事が旨く行っているとして、事態が思わしくない場合は私達はどうなるのか。善行は報われ悪事は罰せられるという「公正な世界」への信念があると、悪い事が降掛った場合、その責任も自分にあると言わざるを得ない。

 もし、私達に悪い所があり、何処かが間違っているとしたら「何故そんな事が私に降掛るんだ」と問いたくなるだろう。人々は振り返って、そうした事態を(仮にそれが自然災害だとしても)招くに当って、自分は何をしたかと考える。悪い事が起った場合には、自責の念、罪の意識、寄る辺なさ、そして恥ずかしさが湧き起る。その結果が抑鬱状態だ。

 信念は私達自身が創造し選択する。一度それが理解されれば、私達は公正な世界と言う観念を追い払って、ネガティブな経験を最も合理的に思考できるようになる。両親が悪い為に、仕事を失ったせいで、更には破壊的な竜巻によって苦しめられる事はあろう。だが、そうした事は、私達が不幸を運命づけられていた為に、或は酷い目にあいたいと願っていた為に起った訳ではない。こうした躓きから立ち直るのに、私達に必要なのは、出来事を個人化せずに外在化し、悪い事も偶には起ると気付くようになる事だ。

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トラウマの経験の克服を提案したボリス・シリュニック [心理学]

 悲劇に見舞われた時、とてつもないダメージを食らってしまう人々が居る。自分なりの対処のメカニズムを奮い立たせる事もできない侭に、彼らは深い抑鬱ないし失望に沈み込み、時に希望ばかりか耐え抜こうとする意志すら失ってしまう。彼らは災厄にすっかり心を奪われ、悪夢やフラッシュバック、不安に苦しめられる。だが、これとは違った反応をする人々も居る。彼らは自分の人生の通常の浮き沈みを乗り切るばかりでは無く、潜在的な損失感とトラウマに打ち勝つ。抑鬱状態に陥り、対処する事さえできなくなる代りに、どうにか彼らは苦しみに満ちた状況に対処し、前進して行く。

 ポリス・シュリニックは、こうした反応の違いに興味を抱いた。何故酷い抑うつ状態を示す人が居る一方で、見た所直にも「立ち直れる」人が居るのか突止めるべく、シリュルニックは学究生活を心理学回復力の研究に費やした。

 シリュルニックは、回復力とは個人に内在する性質ではなく、自然な過程を経て形成される事に気付いた。シリュルニックによれば、「1人ボッチの子供に回復力は無い…。それは相互作用であり、関わりだ」。私達は関係を築く中で回復力を形成する。私達は、絶えず自身を、やり取りする言葉や生じてくる感情を通して出くわす様々な他人や状況と「織り合せて」行く。一つでも「編目」が裂けると、自分の生活が解けたように感じられる。実際、「たった一つでも編目が残っていれば、全てを1からやり直せる」。

 ポジティブな感情とユーモアが、回復力のある人々の困難やトラウマに対してよりよく対処出来る人は、困窮の中にも意味を見出し、それを有用で啓発的な経験と見做し、そればかりかそれを笑い飛ばす術さえ見出す事ができる。回復力のある人々は、例え現在がどれ程苦しくとも、将来、事態がより良い方向に転じるかも知れないと考える力を決して失わない。


試練に立ち向かう

 より回復力に旺盛な人は、概して感情が希薄だと以前は考えられていたが、シリュルニックの考えでは、苦しみは、普通の人にとっても回復力のある人にとっても苦しみである事には変わりは無い。問題は、それを利用する選択をどうするかにある。苦しみは、殊によると一生涯続くかも知れない。だが回復力のある人々にとっては、これは立向かう決断を要する試練だ。ここで言う試練とは、何が起っても克服し、経験に打ち負かされるに任せず、それに耐える力を見付だし、その力によって昂然と前進して行くという事だ。正しい支援さえ与えられれば、取分け子供達はトラウマからすっかり回復する力を秘めている。シリュルニックは、人間の脳が可塑性に富み、必要とあらば回復する力を明かにした。トラウマを負った子供の脳は、脳室と大脳皮質の縮小を示すが、トラウマの後で十分な支援と愛を受けた子供においては、1年以内に脳が正常な状態に回復する力を持つ事がМRI断層撮影によって示された。

 シリュルニックは、トラウマの苦しみを被った子供達にレッテルを貼って、見た所希望の無い将来へ子供達を追いやらない事の重要性を強調する。トラウマを構成する要素は2つある。一つは負った傷であり、もう一つはその傷のイメージが再現される事だ。子供にとって最も大きいトラウマ後の経験は、その出来事について大人が下す公然と辱めるような解釈だ。シリュルニックに言わせれば、レッテルを貼られる事でダメージは一層大きくなり、元の経験以上に酷い結果をもたらす。

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精神分裂病を精神の復元と捉えたR・D・レイン [心理学]

 19世紀の終わりに、精神疾患と健常な人間の被る心理的苦痛との違いは程度の差だという考えが、受入れられ始めた。ジクムント・フロイトのいう所では、精神疾患と健常な人とは同じ尺度上の異なる部分に過ぎず、誰でも悲惨な状況に置かれれば、精神疾患を発症する可能性を持っている。こうした文脈からR・D・レインは、新たな文化的流行の卓越した存在として登場した。


生物学と行動

 フロイトと同様、レインも精神医学の根本的価値に異議を差し挟み、精神疾患を生物学的現象と見做すのに反対し、個人の経験を形作る社会的・文化的・家族的影響の重要性を重視した。レイン自身が精神疾患の容赦無い現実を否認した事は無かったが、レインの見解は当時受入られていた精神医学の医学的基礎及び実践とは強い対象を示していた。

 レインの研究は、当時受入られていた精神障害を診断する過程が、伝統的な医学モデルに従っていないと言う事を理由に、精神医学に関わる診断の妥当性を疑問視するものであった。身体的疾患を診断するには、医師は診察を行い、検査を実施する。それにいるなら、対して精神の診断の基礎は、行動に置かれる。レインによるなら、行動に基礎を置いて精神疾患の診断を行いながら、それを生物学的に薬で治療しようとすることからは、更に別の問題が生じる。もし診断が行動に基礎を置いているなら、治療もそうあるべきだ。レインにいるなら、言わせれば、薬は思考能力を麻痺させるものであり、その為真の回復という自然な過程とは両立しない。


精神分裂病へのアプローチ

 レインの主要な研究は、心的機能における深刻な異常によって特徴付けられる重大な精神症状である精神分裂病(統合失調症)の理解と治療、そしてそれを一般の人に分って貰う事を主眼としていた。レインに言わせれば、精神分裂病とは生得的なものではなく、生きるのが困難な状況に対する理解可能な反応だ。レインは、社会科学者グレゴリー・ベイソンの「二重拘束」理論をこれに適用する。二重拘束とは、ある個人が両立し難い期待に向合わなければならなくなる状況に置かれる事で生じる。そこでのあらゆる行動はネガティブな帰結にしか行き着けず、時として甚だしい精神障害に至る事がある。


突破口としての病

 レインが革命的であったのは、精神分裂病の患者の示す異常な行動と混乱した発言とを、障害の十分に根拠のある表現と見做した事だ。レインによれば、精神病のエピソードは当人の関心を伝えようとする試みの現れであり、重要な人格的洞察に通じる可能性を秘めた浄化作用と変化の可能性を伴った経験と見做されなければならない。こうした表現が理解し難いものである事は、レインも認める。だがその理由は、単にそれらが個人的象徴体系の言葉で覆われているからに過ぎず、その言葉は内側からのみ有意義なものとなる。薬に頼らないレインの精神療法は、患者の象徴言語を、注意深く共感的な心で耳を傾ける事で、意味あるものにしようと言う試みだ。その基礎には、人々は自然状態においては誰もが健全であり、精神疾患なるものは、それを復元しようとする企てなのだと言う信念がある。


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人間の振舞いの循環的因果性に目をつけたポール・ワツラウィック [心理学]

 心理療法は時に、患者が自分と、それ迄の経歴と、行動についての自己理解を獲得する事を過度に重視する。その基礎には、感情的苦しみと向き合い行動を変えるには、自分の感情パターンの根が何処にあるかを理解する必要があると言う信念がある。オーストリア出身の米国の心理学者ポール・ワツラウィックは、この過程を「洞察」と呼ぶ。例えば、自分のパートナーから振られた後、異様に長い間悲嘆にくれている男は、子供の頃に母親から捨てられた為に、捨てられる事に根の深い問題を抱えている事に気付くと言うケースがあったとしよう。だが、これ迄多くの療法家達は、そんな洞察は感情的苦しみに立ち向かうには無用だと結論してきた。だが、ワツラウィックも含めた一部の療法家は、この洞察のせいで、患者が前より悪くなる事があると主張する。

 ワツラウィックは、自分を掘り下げるような深い理解の結果として当人が変化する事例等一つも想像できないと述べた。過去の出来事の理解が現在の問題に光を投じる助けとなるという信念は、因果関係の「短視的な」見方にも影響されている。ワツラウィックは、人間の振舞いの循環的因果性という考えに惹きつけられた。それによれば、人々は繰り返し同じ行動を辿る傾向を持つ。

 ワツラウィックによれば、時に洞察は現実の問題並びにその潜在的な解決の方法に対して目眩ましとなる。ワツラウィックはブリーフセラピーを支持するが、それは特定の問題に的を絞り、取組むことで、ずっと直接的により早い解決に至る狙いを持つ。だがワツラウィックはその一方で、成功を収めようとするどんな療法家にも必要なのは、患者を支援する関係を提供する事だとも感じていた。

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サイケデリック運動を推進したティモシー・リアリー [心理学]

 ティモシー・リアリーは、1960年代のカウンターカルチャーの時代に最も広範に用いられたキャッチフレーズ「しびれて、目覚めて、抜け出せ」を考案したことで、印象的存在となったアメリカの心理学者だ。

 だが、リアリーが私達にこれら3つを実行して貰いたいと望んだ順序は若干異なっている。それによると、社会は政治で汚されており、真の個人に不可欠な意味の深みを許さない、不毛で包括的な共同体で構成されている。そこで私達に必要だとリアリーが考えた最初の事は、「抜け出せ」だ。これは、私達は自分を不自然な執着から解放し、思想においても行為においても自己を信頼できるようになる必要性を主張している。不幸にも、「抜け出せ」は生産活動を止めるよう人々を急き立てるものだと誤解されたが、それは決してリアリーの意図では無かった。

 次に、リアリーは私達に「しびれろ」、詰り無意識を掘り下げて、「君を君自身の身体という神の寺院へ立ち戻らせる秘蹟を見出せ」と語る。これは現実のもっと深い層を、そして経験と意識の様々なレベルを探索せよという指令だ。ドラッグはその方法の一つだ。そしてハーヴァードの教授だったリアリー自身も、幻覚を齎すドラッグLSDを使った実験に手を染めた。

 「目覚める」為にリアリーは、自分の変容を反映した新しい行動パターンを探す事で、新たな展望を携えて社会へ立ち戻り、新しく見出した方法を他者にも教えることを私達に求めた。

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家族が心の基礎と述べたヴァージニア・サティア [心理学]

 ある人間が「元々の家族(自分が育った家庭)」の中で引受ける役割は、当人のその後の成長を左右する種子となる傾向がある。米国の心理学者ヴァージニア・サティアは、人格形成において家族が占める重要性を認め、健全できちんと機能している家庭と機能不全に陥っている家庭との違いを考察した。取分けサティアが関心を示したのは、家族間に健全な力動性が欠けている場合に、それを補う為に各人が引受ける傾向のある役割とはどのようなものかという点であった。

 健全な家庭生活には、情動のオープンで互酬的な提示及び相互の間でのポジティブな眼差しと愛の表出が認められる。それ以前のどの療法家よりも、サティアは、きちんと順応させた魂を発達させる上で、共に満ちた育みあう関係が持つ力を重視した。


ロールプレイング(役割演技)

 家族の構成が情動や感情をフランクに表出する能力に欠ける時、本来の自己同一性に代わって、人格的「役割」が表れる傾向があるとサティアは示唆する。サティアは、個々の家庭の成員が取分けストレスを感じている時にとる傾向の高い五つのよく演じられる役割を挙げている。第一は、絶えず罪を見つけ批判する成員(「

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合理情動行動療法の基礎を築いたアルバート・エリス [心理学]

 古代ギリシアの哲学者エピクテトスは、起源80年に「私達は出来事にでは無く、出来事に対する自分自身の見方に悩まされる」と主張した。この原理が、1955年にアルバート・エリスによって考案された合理情動行動療法(REBT)の基礎だ。これによれば、経験は如何なる特定の情動的反応をも惹き起さない。反応を惹き起すのは、個々人の信念と体系だ。

 1940年代と1950年代に精神分析家としての実践を積む中で、エリスが気付いたのは、患者の多くが自分自身とその幼年期についての洞察を得ながらも、不幸にもその症状は無くならないという事であった。それは、1つの問題が解決されると、患者が別の問題を持ち出して来るかのようであった。エリスはそこから、問題は患者が思考する仕方(詰りは認知)にあり、洞察以上にそれを変える事が必要だと思い至った。


非合理的思考

 エリスは自身の治療法を合理情動療法と名付けたが、それは長期に亘感情的問題の大半が、大抵非合理的思考に由来するという認識があったからだ。最も良くあるパターンの1つは、出来事について極端な結論を、取分けネガティブな結論を引出す傾向にあるとエリスは指摘する。例えば、非合理的に考え勝ちな人間が仕事を失ったとする。その時彼は、これは当人にとって単に不幸なのではなく、とてつもない事だと感じる。この男が自分に価値が無いと思う理由は、自分が解雇されたからであり、決してこの先代りの職を見つけられそうに無いからだ。エリスによれば、非合理的な信念は非論理的で、極端で、不利を齎し、当人の妨げとなる。それはそうした信念が不健全な情動的帰結を招くからだ。

 合理的思考は、逆の効果を生む。エリスによるなら、合理的思考は有益なものだ。困難を前にして、そこに破滅的なネガティブな結末を想定する事無く、それに耐え得る能力と寛容さとにその基礎があり、更に人間のポジティブな可能性への信頼がある。こう言ったからと言って、ネガティブな要因に眼を閉ざして、素朴でポジティブな信念だけに眼を向ければ良いと言う事ではない。合理的思考は、悲しみや罪悪感、フラストレーションと言った感情が時には理に適ったものである事は否定しない。合理的に考える人でも、仕事を失う事は有りうる。その原因が当人の責任に拠る事もあろう。だからといって、自分が無価値な人間ではない事は言うまでもない。或いは、その事で当人が滅入る事もあろう。それでも、合理的に考えれば別の仕事に就く可能性は何時でもある。合理的な思考はバランスが取れていて、何時も楽観論と様々な選択肢の余地を認めている。だからこそ、健全な情動的帰結がそこからは導かれる。

 非合理的思考についてのエリスの考えには、カレン・ホーナイの「~すべき」の抑圧と言う考え(中には、それがどうあるかとは“魔術的に”異なっているべきだという考えへの没頭)からの影響が認められる。こうした考え方と現実を和解させようともがくのは、辛く終わりの見えない葛藤だ。それに対して、合理的思考は、受入れに主眼を置く。時には私達が望まない事柄も起るが、それも人生の一部なのだと言うバランス感覚を失わない。


条件付けられた反応

 私達は、人々や出来事に対して一定の応答をする為、それらが殆ど自動的な反応のようにさえ思えてくる。私達の反応は、出来事そのものと分ち難くリンクしてゆく。だが、エリスの目指すのは、ある出来事がある感情にどう影響を齎すかを認識しようとする事だ。出来事が直接にその感情の原因になる訳では無い。私達の感情的反応は、生じた事柄に対して私達が認める意味に左右され、それはそれで更に、合理的、もしくは非合理的思考に支配される。

 その名称が示すように、合理的情動行動療法は、情動反応(認知過程)と行動の双方を問題にする。両者を繋ぐものは、2方向へ進展する。行動を変える事で考え方を変える事も可能だし、考え方を変える事で行動を変える事も可能だ。エリスによるなら、自分の考え方を変えるやり方には、非合理的信念をそれと認め、更には合理的な思考でそれらに立ち向かう事で、それに異議をさしはさめるようになる可能性が含まれる。


信念への挑戦

 REBTを受けている間、個々人は自分や人生の中での自身の立場について最重要と感じられる幾つもの信念を持っていないか考えるよう求められる。実は、そうした信念が非合理的な応答に影響を及ぼしている。この過程は、「論争」として知られる。例えば、ある人々は、「自分は、知る限りで唯一の本当に当てにできる人間だ」とか「私はこの世界で常に1人ボッチで居る定めにある」と言った信念を抱いている。治療の中で、各人はその個人史を探究して、こうした信念体系を合理化している当のものを見出すよう促される。何回もの破綻を経験した人は、「ひとりぼっちでいる」事が自分の運命だと、或は自分達は何故か「愛されるに値しない」存在だと言う幻滅に憑りつかれているかも知れない。REBTは人々を励まして、喪失や孤独の苦しみを受入れ、喪失を齎す諸要因を論理的に評価できるようになる助けをする。だが、1つか2つの実例を持って何か常に起きると見做し、だから幸福にはなれないと言う信念を自明化する態度は、断固として拒絶される。

 非合理的思考に内在する困難の1つに、それ自体を永遠化しようとする傾向がある。例えば「これまでに1度も良い事が自分には無かった」と考える場合、良い事が起る事を探そうと言う気にさせてくれる要素は、殆ど無いか皆無に等しい。非合理的思考は、良い事が起る可能性を、余り在りそうも無い事と見做す。その結果、そんな可能性を追及しようと言う気持ち自体が挫かれる。多くの人々は、自分を永遠化してくれる信念:「そう私は何度も頑張った。だから、良い事なんて起るはずが無いと分っているんだ」を表に出す。これによって、この人々の信念体系は合理化され強化される。

 非合理的思考は、「黒か白」だ。それは、個人が可能的経験の全幅を認識する妨げとなる。もし誤った信念体系が状況を常にネガティブに解釈に私達を導くとしたら、その結果別のポジティブな経験の可能性が損なわれる。「百聞は一見に如かず」と屡々思われがちだが、自分の信じているものが自分の見ている物だというのが現実だ。


構成主義理論

 REBTは、私達の好みが躾や文化に影響されるとしても、私達は自身の信念と現実とを自ら構築するのだと考える点で、構成主義だ。エリスに言わせれば、療法として見る限り、それは人々の固定的で絶対化された思想や感情、行為を露にしようと務めそれによって人々がどのようにして「自分を失望させる」選択を行っているかを実感できる助けになろうとする。それは健全な道筋をイメージし、それを選び、新たなずっと得る所の大きい信念を内面化し習慣化するにはどうすればいいのかを示唆する。その中で、一度患者が決断に際して自分に気付き、自分の意志で(それも屡々異なった風に)選択すると言う考えを自分のものにすれば、療法家は廃されるべき存在と化してゆく。その時、療法家は、最早患者には必要なくなる。


行動的療法

 アルバート・エリスの理論は、時間を掛けるのを事とする精神分析の方法論に異議を差し挟み、今日では良く知られている認知行動療法の最初の型を作り上げた。エリス自身が行動的でどんどん指示を与える療法家であり、長期に亘って受け身の姿勢に徹する精神分析に代えて、作業と力とを直に患者の手に返した。この手法は、カール・ロジャースのそれを先取りするものであった。又エリスは、理論化だけでは不十分だと言う点を強調した。「行動に次ぐ行動でそれを実証しなければならない」とエリスは語っていた。REBTは、1970年代と80年代を通じて最も知られた療法の1つになり、アーロン・ベックの業績に多大な影響を与えた。ベックはエリスを評して、「開拓者にして革命的療法家であり、理論家であると同時に教育者でもあった」と語った。

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実存心理学の父:ロロ・メイ [心理学]

 19性世紀後半から20世紀中葉にかけて、、ニーチェ、キルケゴール更にはハイデガーと言った哲学者達が社会のドグマに挑戦して、人間の経験についてより豊かな取り入れた考え方を押し広げるよう人々を促した。この運動は今では実存主義として知られている。自由意志や個人の責任と言った観念、私達が自分の経験をどう言った解釈するかと言った事全てがが、実存主義者の関心事だ。実存主義者求めるのは、根本においてそれらが、人類の存在にどんな意味を持つのかを知る事だ。

 心理学者ロロ・メイの「不安の意味」(1950年)は、こうした人間を中心に据えた哲学的アプローチを、初めて心理学の内に持ち込んだ。そこからメイは、屡々実存心理学の父と見做される。


実存主義的アプローチ

 メイは人生を、病気の兆候でなく、苦しみをも通常の人生の一部として持つ人間の経験のスペクトルと見做した。私達が人間である限り、自分に関心地のよさを齎してくれるのは当然だ。私達は馴染みの環境を享受し、精神的及び肉体的バランスのとれた安楽な状態に維持してくれる経験を優先する。だが、こうした傾向は、経験に判断を下して、「良い」「悪い」のレッテルを貼るように迫る。そこでは、その経験が齎す「快」乃至「不快」の程度しか問題とされない。メイに言わせれば、そうする中で、私達は自分自身に仇なす。そこで私達は、それを人生の自然な一部として受け行けられれば、絶えざる成長と発展へと至る過程に、無益に抗って姥貝ているのだ。

 メイが提起するのは、仏教的思考の反響が認められるような人生へのアプローチだ。そこでは、自分に居心地が悪いか不快だと感じられた経験が遠ざけられも否定もされずに、あらゆる経験が同等に受入れられる。詰り私達に必要なのは、自分の「ネガティブな」感情を抑圧も排除もせず、受け入れる事だ。苦しみと悲しみは、「治療されるべき」病理的な状態ではない。それらは人間的生活を送る上で避けて通れない自然な一部であって、それこそが心理学的成長を可能にしてくれる意味で重要な経験でもある。

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ヴィクトール・フランクルは決断と態度の自由の能力で生きる意味を掴めと言う [心理学]

 ウィーン出身の精神医学者ヴィクトール・フランクルは、自分と妻、兄弟と親が強制収容所に連行された事を機に、自殺の防止と抑鬱の治療を専門に研究しだした。フランクルはそこで3年間を過ごし、ここに集められた者達の唯一の生残りとして、多くの災厄と損失に耐えた。後の著書『「生きる意味」を求めて』(1946年)で、フランクルは、人間には苦しく破滅的な状況を耐え抜き前進する為の2種類の力があると言う。それは決断の能力と態度の自由の能力だ。フランクルは、私達が環境や出来事に左右されるだけの存在では無いと言う点を強調する。それらが私達をどう形作るかを決めるのは、私達自身だ。苦しみでさえ、私達がどう解釈するかに応じて、違って感じられるようになる。

 フランクルは、自分の患者で亡くなった妻を寂しく思う余り、苦しんでいる男のケースを挙げている。もし患者の方が先に死んでいたらどうなっていたのかかとフランクルが問うた所、自分の妻も同じように困難を感じていたろうと患者は答えた。フランクルが指摘するのは、患者は自分の妻に深い悲しみを与えまいと気遣ってきた訳だが、今やその悲しみを自部自身が被らねばならないと言う事だ。苦しみは、その意味を与えられる事で、耐えうるものとなる。「苦しみは、その意味をみいだされた時に苦しみではなくなる」。

 フランクルに言わせれば、意味とは私達が「案出するのではなく、見出す」ものであり、それを私達は生きる中で、外部に見出さねばならない。私達は生きる中で、愛を通して、創造行為を通して、そして物事を見る選択を通して意味を見出す。

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自己実現へ向けたマズローの主張 [心理学]

歴史上記録されている限り、至る所で、何故私達はここに居るのか、人生の目的は何かと言った問いが提起され続けている。こうした問いの根底にあるのは、何が自分達を本当に満たしてくれているのかを知りたいと言う強い欲求と、それと裏腹のそれを見出す方法についての混乱だ。精神分析家であれば、生得的生物学的衝動の充足が満足へ通じると述べる事だろうし、行動主義者であれば、食事や睡眠、セックスによって生理的欲求を満たす事の重要性を事細かに述べ立てる事だろう。だが、20世紀初めから中葉にかけて生まれた心理療法思想によるなら、内的充実に至る道は遥かに錯綜したものだ。

この新しいアプローチの主な提唱者の1人が、心理学における人間主義運動の創始者の1人と目されている精神療法家アブラハム・マズローだ。マズローは、私達にとって最も大切なものである愛や希望、信仰に精神性、個体性や実存といったものを考察する事で、人間の経験を検討した。マズローの理論の最も重要な側面の1つが、意識の最も高次な所迄発展した段階に至り、最大の潜在能力に気付く様になるには、私達は先ず人生における自身の真の目的を見出し、それを追求しなければならないと言う見解だ。マズローはこの究極的な在り方を自己実現と呼ぶ。


自己実現へ向けて


マズローは人間の動機付けの階梯を説明するのに、高度に構造化された見通しを提出し、その中で、人間が自己実現へ向けて進む際に辿ってゆくべき諸々の段階を定義した。マズローの良く知られたこの欲求の階段は、屡々ピラミッドとして描かれるが、最も基本的な欲求を土台に置き、満たされた人生を送る上で必要な本質的な欲求の方は、頂点に一纏まりにして置かれている。

マズローの階段は、2つの異なる部門に大別される。最初にあるのが、「欠乏欲求」を構成する4段階で、これらは全て個人が「成長欲求」を通じてもっと大きな知的満足を達成しうるようになるよりも前に満たされておく必要がある。欠乏欲求は単純かつ基礎となるもので、その中には(食餌や水や睡眠といった)生理的に必要なもの、(身の安全や危険の不在といった)安心の為に必要な物、(他者と親密になり、他者から承認されたいといった)自尊心に必要なものが夫々含まれる。

高次のレベルに位置する成長欲求には、認知的(知識と理解への欲求)と審美的(秩序と美への欲求)なそれがあり、最後に人生の目的を定義する2つの要件にして、心理的かつスピリチュアルな意味での充足へと通じてゆく自己実現と自己超克がくる。自己実現とは、自己充足の欲望であり自己超克とは自己を越えた所まで進んで(神のような)私達よりも高次の存在に繋がりたい、或は他者が自身の可能性に気付く助けになりたいという欲求だ。更にマズローによれば、私達の誰もがその当人にだけフィットする個人的な目的を抱いており、そこでは目的を見定め追求する事が、充足へ至る道の一部となる。もし誰かが、人生の中で自分に一番適した事を行っていないなら、それ以外のどんな欲求が満たされているかは問題では無く、その人間は何時迄経っても落ち着けず満たされない儘だろう。私達の誰もが、自分の可能性を見出し、それを満たす事を可能にしてくれる経験を得ようとしなければならない。「人間は、自分がなれると思った者にならなければならない」と言うのがマズローの主張だ。


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「良い生活」を誘うカール・ロジャースの提案 [心理学]

19世紀から20世紀初頭にかけて、心理学的治療の主要アプローチは、精神疾患は治療される必要のある特定の病理的状態だという考えに基づいていた。例えば、通常の精神分析理論は、自身の精神的健康に問題を抱えている人を「神経症的」と見做した。精神疾患は、ネガティブな光の下で見られ、当時の大半の心理学的実践も理論も、精神疾患の根底に潜む原因の組織的な説明を含む厳密な定義と、それを治療する為の特定の方法とを提示していた。


アメリカの心理学者カール・ロジャースは、心的健康に関する遥かに困難な道程を辿って、その過程で、従来の心理療法の手段を拡張した。ロジャースの考えでは、当時の哲学は余りに画一的化し、硬直化した為、人間の経験のような力動的なものを巧く説明できなかった。そもそも人間性とは、既定のカテゴリーに適合させるには余に多様なものだ。


こころの健康を実現する


ロジャースの考えでは、精神の健康を特定の固定的な状態と見做すのは馬鹿げている。精神の健全な状態とは、一連の状態を経て最後に突如として達成されるようなものではない。ましてや、精神分析学者達が強調するように、生体の欲望や衝動が充足される事で個人の神経症的な緊張状態が減った結果として健康が得られるというものでもない。のみならず、行動主義者達の推奨するように、内的な不浸透性の恒常性乃至バランスを発展させ維持するように設えられたプログラムに従ったり、世界の外的カオスの自己への影響を切り下げる事で培われる訳でもない。


ロジャースは、欠損状態にある人がその状態から回復するには、治療される必要があるとは考えず、人間の経験及び私達の精神そして環境を、それ自体生きて成長するものと見做した。ロジャースは、「有機的経験の現在進行形の過程」を問題とし、生命を現在進行形の営みと見做した。生命はあらゆる瞬間の経験の内に宿るのだ。


ロジャースにとって、健全な自己概念とは、固定的なアイデンティティではなく、諸々の可能性に開かれた流動的で絶えず変化して行く実体だ。ロジャースが受け入れるのは、無限の可能性を秘めた、真の、何も前もって定まっておらず、中空を漂っているような健全な人間的経験の定義だ。同僚の心理学者アブラハム・マズローの表現を借りるなら、人間は「適合し」「実験される」ことが決まっている道を旅する存在では無い。ロジャースに言わせれば、生きる事は、どんな種類のものであれ既成の運命に到達する事ではない。生きるとは、終点に向かう旅では無く、私達が死ぬまで何処までも成長と発見を続ける現在進行形の過程なのだ。


「良い人生」を送る


ロジャースは、「良い人生」を送ると言う表現を用いて、自分のアプローチを受入てくれた人々の示す性格や行動は、「人生の流れの中で十全な」状態にある。その為の1つの本質的な構成要素は、この瞬間にすっかり現前しつつ止まる能力だ。自己も人格も経験から作られる以上、時間毎に提示される様々な可能性についても完全に開かれた状態であり続け、経験をして自己を形作る事が最も重要だ。個人は絶えず変化し続ける環境の中で生きている。それでいて人々は頻繁に、それも余りにお手軽に、この流動性を否定して、その代りに事態はどうあるべきだと自分は考えるかのステレオタイプを作り上げようとする。このような存在様態は、ロジャースの考えている、存在の本性からして必要とされる、自己の流動性で浮動的、かつ絶えず変化しながら組織化する真逆にある。


世界がどうなっていて、又どうあるべきか、そしてそこでの自分の役割は何かと言った事についての私達の予断が、私達の世界に限界を画し、現在に止まり経験に開かれる私達の能力を切り縮めてしまう。良い人生を送り、経験に開かれた侭である為には、自分が囚われていてはまり込んでいると感じてしまう事の無いような状態をキープする必要があるとロジャースは言う。ロジャースの考えでは、目標とされるべきは、自身の経験を予め思い描いている自己についての感覚に適合させようとするのではなく、経験をして私達の人格の形成の為の出発点たらしめる事だ。もし私達が、事象が実際にどうなっているかを受入れようとせず、事象がどうあるべきかについて自説に固執するなら、私達は自分達の欲求を、実際に利用可能なものと比べて「釣り合わない」、或はうまくそぐわないものと見做してしまうだろう。


世界が「私達の望むように」なっておらず、さりとて私達が自分の考えを変える事も出来ないなら、防衛機制と言う形で葛藤が生じる。ロジャースに言わせれば防衛機制とは、不快な刺激が意識に登るのを妨げるべく、無為識裡に何らかの戦略を講じようとする傾向だ。私達は実際に生じている事を否定する(遮断する)か歪める(再解釈する)かする。これはその本質において、自分が予め思い描いていた考えを固辞すべく、現実を受入れるのを無視すべく、現実を受け入れるのを拒絶する態度だ。そうする中で、私達は自分達の内なる反応や感情・観念の全幅を自らに禁じて、様々な広範な可能性を、誤らないし不適切なものとして退けてしまう。現実が私達の予断とぶつかる場合に生じてくる防衛的な感情と思想には、経験についての制約された人為的な解釈が映し出されている。「有機的経験の現在進行形の過程」とロジャースが呼ぶものに本当に参入するには、防衛的な態度を完全に捨て去って、新しい経験に全面的に開かれている必要がある。


感情の全幅


ロジャースに言わせれば、自分の感情の全幅に耳を傾けることで、私達は生活のあらゆる部分に亘って、一層深く豊かな経験を持つ事が可能となる。私達は、感情は選択的に遮断できる。取分け嬉しくない不快な感情は弱める事ができると思いがちだ。だか、感情のあるものを抑え込むと、不可避的に感情全体のヴォリュームのトーンが下がる。その結果、自らの本性の全体への通路が阻まれてしまう。他方で、以前にはネガティブなに思えた物も含めて自分の感情とずっと巧く折合えるようになったなら、ポジティブな感情の流れがそれだけ強く表れてくる。それはまるで、自分が苦痛を感じると認める事で、嬉しい時の経験までもが益々強くなるようなものだ。


起る事の一切に常に聞かれている事で、私達は自身の能力を考えている事で、私達は自身の能力を全面的に働かせられるようになり、自分の経験した事から最大の満足を得られるようになる。もはや、自分の自我の一部を遮断して、防衛機制を働かせる必要はなくなる。そうなれば、あらゆる事柄が十全に経験できるようになる。一度予断と言う心の中の惰性的習慣を脱する事が出来れば、私達はどこまでも上昇してゆける。私達に必要なのは世界についての自らの観念にあうように経験を組織化するのではなく、「経験の内に構造を見出す」ことだ。


この開放は、臆病者の為のものではないとロジャースは言う。そのような態度は、個人の側ではそれなりの勇気を必要とする。どんなタイプの感情でも、恐れる事は無い。ロジャースに言わせれば、私達に必要なのは認知と経験の全き流れを認める事だけだ。一層の幅を以て経験の過程に真に接近できるようになれば、私達の誰もが真の自己へと通じる道を益々見つけられるようになる。これが、私達がそうなるようロジャースによって推奨される、全面的な活動状態にある個人の姿だ。私達は常に成長している。ロジャースに言わせれば、どの方向にでも進んでゆける自由がある時に人々が選択する方向は、大抵は一番適した方向となる。実際それが一番似つかわしい。


 


条件付けられない受入


心理療法の分野における先人達の見解とは対象的に、ロジャースの考えでは、人々は本質的には健全な存在であり、精神的にも感情的にも良好な状態にある。それが、人間本性から生じる当然の進展だ。こうした信念が、患者を完全にポジティブな光の基で、絶対かつ無条件的に受入られるべき存在と見做すそのアプローチの基礎を為している。ロジャースが求めるのは、自分の患者が自分に対しても他者に対しても、同じように振舞う術を身に着けている事だ。こうした見方は、万人の潜在能力をそれとして認め、共感する事で可能となるが、「無条件的にポジティブな眼差し」と言う良く知られるようになった表現で呼ばれた。ロジャースの考えでは、彼の患者のみならず、周囲の人々や環境も含めて全ての人が、このように見られる事を必要としている。


自己と他者双方の無条件的な受入は不可欠なステップで、これが欠けると私達は経験への開かれた状態を失う。ロジャースによれば、私達の多くが承知乃至受入を得る前に出くわさざるを得ない、とても強力で耳障りで特殊な条件を抱えている。更に私達は、自分の価値及び他人への歌う心の土台を、あるが侭の人々を受入れる事では無く、達成や外見に置いている。


両親は軽率にも、子供が愛情を受けるに値するのは、あくまでそれなりの要求に子供が応えた場合だけだと教え、子供達が野菜を残さず食べ、物理で満点を取った時には褒賞を与えるが、愛して貰えないとしたらその責任は当人にあるのだとあからさまに示す事がある。ロジャースはこうした要求を、「価値の条件」と呼んだ。その背景には、こちらの勝手な要求に人や物を合せる事を求めたがる私達の傾向は、逆に全員に手痛いしっぺ返しを食らわせるものだというロジャースの考え方がある。


確かに達成は尊重されるべきだが、それは人間の基本的欲求にして、行動や行為を通して「獲得される」必要すらない受入とは別の事柄であり、そればかりか副次的なものでさえある。ロジャースの考えでは、個人の価値とは元々只実存しているという奇跡によって認められるべきものだ。受入は決して条件付きの事柄と見なされてはならない。絶対的にポジティブな眼差しこそが、どうすれば私達全員が「良い人生」を送れるかの鍵だ。


私達が、より自分自身を受け入れられるようになれば、それだけ自分に耐えれるようにもなる。受入は、やらねば、見なきゃ、ものにしなければと言ったプレッシャー(これらは、そうした活動によって自分自身の価値が決まると言う誤った見解をもって生きている時に嵩を増す)を緩和してくれる。そうなれば、ロジャースが自身のセミナーの記録を纏めた著作『人間論』で述べているように、誰もが誰かに対しても今進行中の仕事に取り掛かっている事に気付けるようになる。詰り、私達はみな絶えざる「生成状態」にある。皮肉な事に、私達は自分を受入れられればられる程、不健全なプレッシャーや常に付きまとう批判は減り、桁違いに生産的になってゆける。


自分を信頼する


ロジャースの考え方では、「良い人生」を送るとは、自分を信頼する術を学ぶ事だ。開かれた在り方へ向かっている時、その人は自然と自身とその衝動を信頼する能力と言う点で進歩しており、その結果何の不安も抱く事も無く、自分の決断力に一層の信頼を寄せられるようになっているのに気付く。自分を少しも抑圧する必要がなくなれば、自分のあらゆる部分に対して自然に耳を傾けられるようになる。その結果、多様な見通しや感情を我が物に出来るようになり、自分が行う選択を一層適切に評価できるようになる。そうなれば、その評価によって、自分の可能性をより良い形で自覚できるようになる。そうなれば、その評価によって、自分の可能性をより良い形で自覚できるようになる。こうして、真の自己が何処に向かいたがっているのかが以前よりもはっきりと分るようになり、自分の欲求に見合った選択を行えるようになる。最早、自分がすべきだと考える内容や、社会や両親からそれがお前の望みなんだと押付けられるかもしれないものに振り回される事もなくなり、ずっと楽な気持ちで生きて行けるようになり、自分が本当は何を望んでいるのかに気付けるようになる。こうして、自分を信頼できるようになる訳だが、ロジャースの言葉を借りるなら、それは「自分が無謬だからでは無く、自身の行為の帰結を逐一そのままでは受け入れる事ができ、満足のいく結果とはならなかった場合には、それを正す事が出来るようになっているからだ」。


「良い人生」を送る中で、私達は、自分の人生をちゃんと我が物にしていると言う感覚、そして自分のする一切に対して責任を負う感覚をも持つ。これは、ロジャースの哲学のもう一つの基調音であり、実存的観点に由来している。私達が何を考え行うとも、その選択の責任は自分にある。私達が本当に自分が望み必要としている事柄を分っていて、それを実現する為の道程を辿っている場合には、何を恨む気持ちも生まれない。それと同時に、より責任のある事と自分の人生に本当に自分をそれ注ぎ込もうという傾向とがどんどん強まる。医学を嫌っているくせにその仕事に従事して医者が居ると言う話を聞くのは珍しくない。そういう彼らは、両親が、医者になると社会や親から敬意と賞賛が得られると言ったから、医者になったのだ。これと対照的に大学を中退或は落第する学生の割合が殆ど援助を受けず授業料を納めている学生の間では極めて少ない。


私達が自らの欲望に影響を齎すやり方、そして自分をどう規定しているかは、時に極めて錯綜している。自分ではない誰かの願望の為に行動する時には、憤慨の念が奥底に沈殿することもある。もし自分の行動に対する外部からの影響が皆無なら、私達はそれだけ本来的かつ堅固な形で、自身の運命をコントロールできると実感する事だろうし、その結果にもずっと満足できるようになる。


人間中心のアプローチ


ロジャースの哲学は、彼が1950年代にアブラハム・マズロー及びロロ・メイらと共に創設した人間性心理学と呼ばれるアプローチの礎石となった。それは、人間を基本的に健全で、その可能性を成長させ実現させる力さを持った存在としている。このアプローチは、当時の心理療法における主流のスタイルであった精神分析及び行動主義とは、好対照的であった。後者は何れも個人の病理と、それをどう治すかに焦点を当てていた。


当初ロジャースは、自分の手法を「クライエント中心主義」と呼んでいたが、やがてそれを「人間中心的」と呼び変えた。以降、それは臨床の現場のみならず、教育、子育て、ビジネスその他の領域に対する多大な影響を与えている。ロジャースが「非指示的療法」と呼ぶ人間中心的療法においては、療法家は司会者の役割を演じて、患者が自分で答えを見出す手助けをする。そこには、自分を一番解っているのは患者自身だという信念がある。人間中心的療法において、患者は自分の問題を、そして治療がどのような方向に向かうべきかを自分で決める。例えば患者が、自分の幼児期に話が及ぶのを避けて、今自分が仕事上で直面している問題に話を集中させようとする事がある。その場合療法家は、患者が実際にはどのような役割を引受けたいと思っているのかを自分で発見できるように手助けする。ロジャースはこの過程を、精神分析で言われるように「再構成的」とは呼ばず「支援的」と呼ぶ。とはいえ、患者は支援をあてにして療法家の下にすがりにくるべきでは無い。患者に必要なのは、どうすれば自分を理解し信頼できるようになり、それによって何物にも頼らずに「良い人生」を送れるようになるかを自ら学ぶ事だ。


ロジャースの遺産


ロジャースは20世紀で最も影響力を持った心理療法家の1人だ。彼が新しく齎したクライエント中心的で非指示的な療法は、心理療法の発見過程での転回点を示している。ロジャースの見解は、個人間の自由なコミュニケーションを支持する1960年代のエンカウンター「感受性訓練」グループの哲学の支えともなった。専門的なカウンセリングが教育や社会訓練といった領域へ広がっていったのも、ロジャースに負う所が大きいし、一層効果的なコミュニケーションを通して国際紛争を解決しようとする試みに関しても、ロジャースは先駆的存在となった。


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人間に授けられている最も貴重な能力である愛 [心理学]

ドイツ出身で米国精神分析家エーリッヒ・フロムは人間を「受容的」「搾取的」「貯蔵的」「市場的」の4つの主要類型と最悪類型「死姦的」及び理想類型「生産的」の6つの類型に分けた。

「受容的」な傾向を持った人格は、自分に与えられる分をその侭受入て現実維持の状態で受動的に生きている。

この種の人々は、引っ張っていくと言うよりは後を付いて行くのだが、極端な場合には、これは犠牲者の状態にもなり、ポジティブに見れば献身と受容と言う点で豊かであり、この類型を歴史上の小作農や出稼ぎ労働者に見立てる。


「搾取的」傾向のある人は、他者から取上げる事で大きくなり、自分達の必要とするものを稼いで作る代りに取上げ、その特徴は並外れた自信と主導権を示し、この類型の典型は歴史上の貴族がそうであろう。

「貯蔵的」な人々は、高位置の友人を常に探し、愛する相手でさえその価値に応じてランク付けし、所有物のように見なし、権力に貪欲でケチなこの手の人は、良く言って実用的で経済的であって、中産階級やブルジョワに属す。

「市場的」傾向を持つ人は、どうすれば自分を首尾良く売込に成功するかというイメージに取りつかれていて、あらゆる選択は、反映された状態から評価し、最悪の場合、彼らはご都合主義で浅薄で、良い場合は高度に意欲的で、目的を持ち精力的であって、このタイプはその貪欲さと自意識にきりが無い点で現代社会を体現している。


実際には、私達の人格は大抵主要な4類型の混合からなる。

「死姦的」は破壊だけを追及し、人生の混沌としたコントロール不能な状態を恐れる余り、病と死の話を好み、「法と秩序」を押付けたいという欲求に憑りつかれ、この手の人々は他者よりも機械的なものを好み、控えめな状態では彼らは悲観的に「いいえ」しか言わず、そのグラスは半分空っぽで、決して半分満たされていない。

「生産的」な人は柔軟性と学習と社交性を通して人生に対する筋の通った解決を純粋に追求し見出し、「世界との一体化」を目指し、そのようにして夫々が隔たった孤独を免れていき、合理性と開かれた心を持って世界に応答し、新たな事実に応じて自身の信念を変える事を厭わず、他者を真に、詰り世界に対する記念品や護衛としてでは無く、あるが侭の姿において相手を愛せ、このような勇敢な人間をフロムは「仮面をつけない人間」と呼ぶ。


自分の人生に意味を見出す能力は、人間にとって決定的な特質の1つだ。

私達が探し求めている健全さの感覚を見出しうる唯一の道は、自分の考えと感情に従い、創造的な目的を通過して自分の個体性を発見するにおいてだ。

自分を孤独から解放する決定的な道の1つに、自らの愛する能力を介する道があり、愛は自分達と他者の間の分離と比類なき尊重があってこそ可能となり、愛する唯一つの道は、何者にも捕われずに愛する事、詰り他者の十分の個性を認めつつ愛する事だ。



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憎悪を処理して始めて愛情が芽生える [心理学]

イギリスの小児科医にして精神分析家ドナルド・ウッズ・ウィニコットは第二次世界大戦で家を失った子供を研究対象として、新しい環境を受け入れようと努力する子供達が直面する困難を検討した。

元々無関心で粗雑な家庭に育った子供は、自分を受け入れてくれた家族から「自分が愛されていないのでは無いかという疑い」に苛まれ、そうした子供達は、我が身を守る為に、良い両親の元に送られた場合でも、「憎悪を露にする」ことがあり、ここから当然のように、「両親の内にも憎悪」の感情が呼び覚まされるが、その時もし両親が「自分達の憎悪を」それと「認め」、その感情に対して寛容になったなら、受け入れられた子供は、子供と大人の双方が共に憎悪を経験している場合であっても、「自分が愛されていて」、愛するに足る存在であると「実感する」経過を経て「子供は強い愛着を形成することができるようになる」。

詰り、子供が憎まれっ子を演じる事で、両親から嫌われるかどうかを試し、両親が寛容の態度で接した時、初めて対両親に愛着をもつと言う事だ。


健全な家庭で母親が子供を産む場合でも、出産というイベント自体、身の危険を伴うものであり、生れた後赤ん坊の存在は、それだけで心理的にも肉体的にも途方もない要求を母親に突きつけ、母親が自分の子供を憎む必然性があるが、母親は原初的な情け容赦のない愛で赤ん坊に対する。

であるから、躾と称して苛烈な行動となる場合があり、その場合赤ん坊は憎まれていると言う受け止めをする。

そこで、子供は自己保身の為に、態と憎まれっ子を演じて、母親の愛情確認をして、母親が寛容に受け止めた場合に、子供は自立できるようになる。


ウィニコットは子育ては現実的でなければならず、誠実である為に感傷を排する必要があると言い、そうしてこそ、最初は子供として、後には大人として、自然で避けがたいネガティブな感情をそれと認め、うまくやりくりすることができるようになる。

ウィニコットが勧めるのは、自分達の経験の環境と精神状態にきちんと眼を向け、現実を直視する誠実さをもって振舞うことにより、夫々の人間関係が構築されると言う。


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「無意識は他者の言説だ」と言い放ったジャック・ラカン [心理学]

精神分析者は、無意識とは私達が棚上げしておきたいと願う全ての記憶が貯蔵されている、意識レベルに回収し得ない場所で、時に意識自身に語り掛けるが、それは極めて制限されていて、カール・ユングの考えでは、自らを示すに当って、原型の言語を借りてきて、夢やシンボルを介して自己を覚醒させ、フロイトによるなら動機づけられた行動とたまさかの「言い間違い」を通して表現され、他精神分析学派が一致するポイントは意識的自己によって保持されているよりも、遥かに大きな面積を占めていると言うことだ。

私達は、ともすれば自己の観念を自明視しがちで、誰もが互いに区別される異なった存在として暮らしており、自分の眼を通して世界を理解しているという考えは、他者及び周囲世界から私達を隔てる境界があるという通念と結び付いており、環境との相互作用を保持するスタイル及び思考という点で、自分が他者から切離されている事を前提とするが、自分から切離された存在として認識しうる存在等外部には無いとしたらどうだろうか。

その時、思考の対象とすべき輪郭を持った存在等どこにも見出せなくなり、私達は自分の自己という感覚を概念化し得なくなり、自分が周囲世界から切離されている事を明示する為に私達が個人として行使し得る唯一の手立ては、自分が周囲からも「他者」からも切離されていると認知する自身の能力以外に無く、この能力のお陰で、私達は主体の「私」となり得、ラカンは私達の1人ひとりが「自己」であるのは、私達に「他者」の観念が備わる限りの事だと結論した。


カランの考えでは、大文字の他者とは自己を超えた所に位置する絶対的他者性で、私達がその中へと生れ落ちる環境であり、私達は何とか生延びて行く為にはそれを「翻訳し」、意味の通るものにしなければならない。

幼児は、感覚を概念とカテゴリーへと翻訳する術を学ばないことには、世界の内で然るべき役割を果たせないが、それを幼児は、一連のシニフィアン(記号乃至コードを意味する)に気付き、それを理解してゆく過程を学ぶ中で行うが、これらのシニフィアンは自己を超えた所に位置する外界から私達に到来するものであり、だからそれらは既に他者の言語によって、ラカン好みの用語を用いるなら、他者の「言説」によって形作られている。

私達は言語を介さない事には、思考する事も考えを表現する事も敵わず、私達が所有する唯一の言語とは、ラカンに言わせるなら、他者の言語であって、私達の無意識の思想へと翻訳される感覚とイメージは、この他者の言語によって構成されるより他なく、ラカンの表現を借りるなら、「無意識は他者の言説」なのだ。


このようなラカンの考えは、精神分析の実践に幅広い影響を与え、無意識についての一層客観的で開かれた解釈の可能性を開いていった。

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精神分析療法に革命を起こしたゲシュタルト療法 [心理学]

18世紀にカントが「私達の知識が精神と感覚の制約に縛られている以上、私達には決して自分達の『外部』に何があるのか知り得ない」と、1920年代にユングが「人々に必要なのは内的自己とコンタクトを取る事」と指摘した後、ユダヤ人の精神科医フィリッツ・パールズが「事物が『それ自体において』どのようなものかは分らない。分るのは私達に経験される限りでの姿だけだ」と述べ、ゲシュタルト療法を始めた。

パールズの考えでは、私達が持ちうる唯一の真実は自分自身の個人的真実だけだと主張した

当時、フロイトやユングによって試行されていた無意識を重視した精神分析を使った心理療法ではパールズの主張と相容れず、ゲシュタルト的アプローチを考えつき、それは後にカール・ロジャースの人間中心のアプローチの基礎となっていった。


パールズの主張は「責任を引受ける事」「力を認める事」「運命の否認」の3つにあった。

人々に必要なのは、創造行為に際して自身の力を自覚し、行為(それを構成する世界を含む)に責任がある事に気付き、その責任を負って引受ける事が必要である。

経験が知覚によって作られ、その経験は自身が演じる役割と行為を自身の道具として理解されると、自身の内面に止まらず、取巻く環境を理解しそれに応答すると言う二面の選択肢に向き合う力が得られる。


その力に拠り「どのように」「なにを」が生れ、実際に取巻く環境は変えられる。

言語の使用も重要で、出来ない理由は自己の使う言語(それはできない、~すべき)に縛られ、それを(それはしたくない、~したい)に変える事で行動は大きく変わり、それ迄運命であったものが運命でなくなる。

私達が自らの経験に責任を負う術を学ぶ事で、社会からの影響に左右されない真正の自己が育まれる。


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自我の防衛についてのアンナ・フロイトの理論 [心理学]

『聖書』によるなら、エデンの園に居たアダムとイヴは、誘惑か正義かという選択に直面させられた意思決定であったが、ジグムント・フロイトは、精神についてのその構造モデルの中で、人間の無意識のうちにある同様なモデル(精神の働きを自我・エス・超自我と見做す)を述べている。

エスは真柄卑劣な蛇のように、自分達に良い感じられる事を実行するよう私達を嗾け、それは完全に欲望に突き動かされており、只管快楽(食物や快適さ、暖かさや性欲と言った)と基本衝動の充足とを目指す。

超自我は真柄公正な存在のように、もっと上の道(両親と社会の価値を課すものであり、私達が何をすべきで、何をすべきでないか)を進むように私達を誘う。


最後に、自我は真柄意志決断を行う大人のように、衝動を統制してどう振舞うべきかの判断を下し、その役割はエスと超自我の間に宙吊りされた調停者だ。

オーストリアの精神分析家アンナ・フロイトは、自分の父の考えを膨らませて、超自我の形成とその自我への影響に関心を向けた。

自我は世界の現実を考慮に入れるが、それと同時にエスとも関わり合い、超自我によって一段下位の立場へ格下げされる。


超自我は、一種の内面化された口煩い両親として、罪と恥の言葉を語る。

私達は、ある種の仕方で考えたり行動したりした角で叱られる時、超自我の声を聞いている。

超自我がはっきりと姿を著す(詰り「自らを述べる」)のは、それが自我に敵対する時だけだ。


超自我の批判的声は、私達の中に不安を呼び覚ますので、私達は自我に防衛機制を働かせる為の様々な方法であって、アンナによるなら、私達が用いる数限り無い防衛機制は、ユーモアや昇華から否認や置換え迄多種多彩だ。

自我の防衛についてのアンナの理論は、20世紀の人間性療法の内にとても実り豊かな思想の層を齎した。


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新フロイト派精神分析家カレン・ホーナイ [心理学]

ドイツ生れの精神分析家カレン・ホーナイは、家庭から学校、職場、更にはもっと広範な共同体に至る迄、様々な社会環境は、特定の信念に支持された文化的「規範」をその内に育み、不健全で「有毒な」社会環境は個人の内に不健全な信念を、生出す傾向にあり、この結果人々は自らの最善の潜在能力を非実現に終わると主張した。

取分け肝心なのは、どんな時に、自分で決定した信念ではなく、有毒な環境から内面化された信念に従って振舞っているかを認識し、そうした信念は内面化されたメッセージとして、取分け「私は周囲から承認されるべきだし、力も強いはずだ」とか「私は痩せねばならない」といった「~すべき」として現れる。

ホーナイが患者に語るのは、彼らの精神の中にある2つの影響に気付くようになることだ。


それは、本物の欲望を抱えた「真の自己」と、「~すべき」のあらゆる欲求を満たすべく駆り立てられる「理想の自己」で、後者は現実の自己の道程には非現実的でそぐわない諸観念で精神を満たして、真の自己が理想の自己の要求に応えられなかったと言う「挫折感」によるネガティブな反作用を生出し、ここから、第3の不幸な自己である「蔑視された自己」が現れる。

ホーナイに言わせれば、「~すべき」とは私達の「運命との取引」の基礎で、それに服従すると、私達は、現実には外的現実から酷い不幸や神経症に突落されるにしても、魔術的にそれらを統制できると思い込めてしまう。

ホーナイの見解は、20世紀初頭のドイツと言う彼女が生きた環境(嘗て無かった画一化への傾向の強かった時代)と深く関わっている。

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生と死の本能の争いは生涯続く [心理学]

ニュートン物理学によれば、恒常性乃至バランスはある力に同等の対立する力が拮抗する事で達成される。

フロイトは自身の死の衝動で滅しない為に、ナルシス的で利己的な生の本能を用いて死の本能に対抗し、死の本能を他の対象の方に向け直すしか無いと結論付け、メラニー・クラインはこの点を拡張して、死の本能を外部に向け変えたとしても、私達は依然として「この攻撃衝動」により破壊され得ると危機を感じると主張した。

又、クラインは私達が「生の本能を死に対して動員」と言う対立し合う諸力と共に生きる事は、人間的経験の中心にある元々の心理学的葛藤に他ならないと述べた。


クラインによれば、私達には成長と創造を目指す傾向があるが、これは常に同等に強力で破壊的な力によって駆り立てられており、この現在進行形の心的葛藤はあらゆる苦しみの底に潜んでいる。

攻撃と暴力へ向かう私達の中にある生得的傾向も、この精神的緊張で、人が持つ愛と憎しみも説明できる。

生の本能と死の本能との間での喜と苦痛、刷新と破壊を巡る絶えざる戦いは、私達の精神の中の混乱に行きつき、怒りや「悪」感情が、その良し悪しは問わず、あらゆる状況に対して方向付けられる事になる。


クラインの考えでは、私達は決してこれらの原初的衝動から逃れられず、一生抱え込み、安全で成熟した状態に至らず、暴力の「原初的空想」で沸騰寸前の無意識と共に生きて行く他ない。

こうした心的葛藤の影響がどんどん浸透して行くものだとすると、幸福についての伝統的な見解はもはや維持し難くなり、生きるとは詰る所この葛藤に寛容になる方法を見出す他なく、涅槃の境地に到達出来ないと考えた。

寛容な状態が、私達に期待し得る最善だとすれば、人々の望むものや受取るに値すると思うものの手前で人生が終わってしまい、抑圧と失望に行着くのが常で、クラインによれば人間の経験とは、どうしようもなく不安や苦しみ、無駄や破壊で溢れていて、私達は生と死という両極となんとか折り合って行く他無いと結論付けた。

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無意識原型を提唱したユング [心理学]

スイスの精神科医カール・ユングはフロイトの動機づけの源泉である無意識の中に民族・宗教を跨いで存在する、私達の誰もが自らの経験を意味あるものと認め、それを世代を超えて受け継がれるものを原型と呼んだ。
原型は、多くの種類の行動や感情のパターンと連合するが、取分け直認知され得る特別なものとして、「ペルソナ」「アニムス」「アニマ」、賢者や女神、マドンナにグレートマザー、英雄等がある。
ペルソナは、ユングが定義した原型の中で最も重要な一つで、人間が自らの人格を幾つかの要素に分割して、環境や状況に応じて世界に対して前面に立てている自己を言う。
ユングの考えでは、自己には男性的な部分と女性的な部分があり、アニムスは女性的人格の内にある男性的な要素で、アニマは男性の精神の内にある女性的属性を言う。

アニムスは筋骨隆々たる男性であり、兵士の指揮官であり、クールな倫理学者であり、ロマンティックな女誑しの「本物の男」をあらわす。
アニマは、自然に近しい存在であり、直感的で本能的な森の妖精や処女、魅力的な女性である。
こう言った原型は、私達の無意識の内に実在する限りで、私達の気分や反応に影響したり、予言的な言葉(アニマ)や断固たる合理性(アニムス)としてあらわれることもある。

ユングはペルソナの対極にあるものとして、私達の中にあるものを見たがらない存在を影とした。
最も重要な原型は真の自己で、これは中心的で組織化する原型で、他のあらゆる側面を1つの統合された完全な自己へ統合させようとする「自己実現」へと誘うものである。
原型は夢判断において大きな力を発揮し、真の自己実現を導く。


ユングによるなら、私達が自らの意思によって推論を働かせて行う意識的思考だと見做しているものの大半は、実際には既に無意識的活動に、取分け統合的に働く原型の諸形式に先導されている。
現代ではユングが生み出した原型を使ってМBTIのような性格テスト等に広範に適用されている。
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神経症は当人に絶えず劣等感をもたらす [心理学]

フロイトの思想は19世紀後半の精神療法を支配する程であったが、その手法は無意識衝動と個人の過去の残滓に焦点を合せる事に限定されていた。

アルフレッド・アドラーは心理学理論をフロイトの見解を超えた所まで拡張して、個人の心理は現時点における意識的諸力にも影響されるが、社会的な環境や領域の影響も同等に見逃せないと示唆した1人だ。

アドラーはこうした考えに基づいて、自身のアプローチを個人の心理学として確立した。


アドラーは、取分け劣等感と自尊心の齎す積極的効能と消極的効能とに関心を示したが、その始まりはアドラーの経歴の初期に迄遡る。

その頃アドラーは、身体的障害を抱えていた患者達を相手にしていた。

そうした障害が当人の成し遂げた事と自己の感覚に齎す効果を観察する事で、アドラーは患者達の間に甚だしい相違のある事に気付いた。


障害を抱え乍も、高度な運動能力を発揮する人々もおり、こうした人々にあっては身体的障害が強力的な動機付けの力として作用している。

もう1方の極には、自分の障害によって打ちのめされていると感じており、そうした状況を打開する努力を殆ど出来ないいる人々が居た。

アドラーが気付いたのは、こうした違いはこれらの人々が自分をどう見ているか、言換えれば彼らの自尊心に由来すると言う事であった。


アドラーによれば、自分が劣っていると感じる事は、幼児期にその起源をもつ普遍的な人間的経験だ。

子供は自然と劣等感を感じるものだが、それは彼らが、常に自分よりも力の強くずっと優れた能力を持った人々に囲まれているからだ。

子供は、周囲の力に動機づけられて、自ずと年長者の能力を見習い、それを我がものにしようとする。


これによって子供は、自分自身を発展させ目標を達成しようという気になる。

健全でバランスの取れた人格を有している子供も大人も、外部にある目標に自分達が応じられると気付く度毎に自信を獲得してゆく。

劣等感は、次の目標が現れ克服される迄は消え去る。


この精神的成長の過程に終わりはない。

だが、身体的劣等感を抱いた人は、もっと一般化された劣等感を抱き、その結果バランスを欠いた「劣等感コンプレックス」に行きつく危険性に付き纏われている。

そうなると、劣等感は決して取り払われることはない。


目標に到達したいと絶えず望む中で顕れる、同じ様にバランスを欠いた「優越感コンプレックス」の存在にもアドラーは気付いていた。

この場合の目標は、到達されたからと言って、個人の内に自信を吹き込まず、絶えず当人を更なる外的認知と達成を求めるよう駆り立てるだけだ。


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心理療法の扉を開いたジクムント・フロイト [心理学]

無意識の世界に光を当て、そこからの個人の解放によって、精神疾患に対する手法をフロイトは切り開いた。
1885年にジャン=マルタン・シャルコーによって催眠術を使って精神疾患に効用を齎した事が注目された。
シャルコーは、ヒステリーは神経系の異常によって惹き起される神経的錯乱はであるとし、この考えがヒントになってフロイトが無意識の世界に光を当てる切欠となった。
患者に単にその幻想や幻覚を物語るよう求めるだけで、患者の精神疾患を著しく改善していた医師ヨセフ・ブロイアーと出逢い、友となり精神疾患(現在は患者の意識から締出している過去において生じたトラウマ的な体験の帰結)治療に当って共同研究者となった。
何時しか、2人の見解に相違が生じ、フロイトは独力で精神分析の着想と技法とを発展させ続けた。
フロイトの考えは「ある考えや記憶、衝動が、意識的精神が耐えるには余に強すぎるか、不適切な時、それらは抑圧され、私達の本能的衝動に並行する無意識の内に貯蔵される。これによってそれらは、直接的意識によってはアクセス出来ないものとなる。無意識は黙せる侭に個人の思考と行動を方向付け、無意識的思考と意識的思考の違いは精神的緊張を産み、この緊張は、精神分析を通じて抑圧されていた記憶が意識の内に入る事を許されるようになった時に、初めて解き放たれる」と言うものであった。
フロイトは生理学者エルンスト・ブリュッケが「他の有機体と同様に人間も本質的にはエネルギー系であり、エネルギー保存の法則から逃れられない」の説に賛同し、心的過程に適用して「精神エネルギー」の考えを持つ。
更に進化して、動機付けとなる衝動を生出す意識構造として自我(エゴ)・エス(イド)・超自我(スーパーエゴ)を提唱した。
エスは快楽原則に従い、自我は現実原則を承認し、超自我は判断力であり、良心・罪悪感・羞恥心の源泉として働き、これによってエスや自我をコントロールしていると考えた。
無意識の中には膨大な量の相争う力が渦巻き、生の衝動と死の衝動に加えて、抑圧されている記憶と情動の強度や私達の抑圧された現実の見方に備わる矛盾も内包されていて、これらの対立し合う諸力から生じる葛藤こそが人間の苦しみの根底に潜む心理的葛藤であって、人が不安や抑鬱、神経症その他の不満で居る原因と考えた。
その治療にフロイトは無意識に潜む葛藤を重視し、抑圧されている記憶から解放して患者の心的苦痛を和らげるべく務めた。
無意識的思考は、事象を理解する際に参照する枠組みや自ら創造するシンボル等を経由して語り掛け、分析者は媒介者として振る舞い、それまで語られる事の無い思いや耐え難い感情の表出に手助けを行う。
無意識へ接近する手段として「夢判断」が重んじられるが、その解析にフロイトの夢を実験資料とした。
無意識に接近する手段として言い間違いと自由連想法を重視した。
言い間違いは、言葉に関わる誤りで、「口が滑る」ことで、結果的に抑圧されている信念や思考、感情が露わになることで、本人が意図せずに本当に感じている事をうっかり露にしてしまう事を言う。
自由連想法では患者に「ある単語」を聞かせ、それを聞いた時に最初に浮かんだ言葉を促されて、その侭述べさせる方法で、私達の精神は自動連想法によって動かされて居て、促されて「隠された」思考は意識的精神を中断する前に声を発してしまう事を利用している。
精神分析者はこれらの手法で無意識の世界を開放し、抑圧された精神を開放する助けをする。
1908年にフロイトは精神分析学会を設立したが、現在では22の学派に分派しているが、その中心にあるのはフロイトの考え方である。
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科学の門を開いた行動主義者 [心理学]

1890年代には、心理学はその哲学的ルーツから切離されて、科学的な主題として認められるようになった。
切欠は、チャールズ・ダーウィンが「人間と動物の感情表現」を著し、行動とは進化的適応であると論じ、それに触発された心理学者が条件付け等の実験手法を計画し、それらから様々な推論を打ち出した。
先ず、1番バッターに立ったのは、行動主義心理学の基礎とも言うべき、効果の法則を打ち出したソーンダイクで、プラスの結果のみ出力を記憶し逆のものは忘れると言う学習を規定するものであった。
次に、ジョン・B・ワトソンが「行動主義の見地から見た心理学」を著し、これは非公式乍行動主義宣言となる。
実際に「幼児アルバート」で実験を行い、条件付けられた感情的反応を幼児に教え込んだ。
次がパヴロフの犬で有名な古典的条件付けを明かにし、行動主義心理学が確立した。
1930年になって、動物は本能によって動くのではなく、環境に左右されるとされ、刺激に出逢うと自発的な反応としての行動を引起すと言う行動主義の原点とも言うべきものになって行った。
その後、コンラート・ローレンツが刷込み現象を発見し、エドウィン・ガスリーが単一━試行学習を提言して古典的条件主義を否定し、クラーク・L・ハルが衝動的減退を主張した。
エドワード・トールマンは認知症マップを示唆し、B・F・スキナーは「言語行動」を著し、人間的欲求の満足が反応強化の真の土壌と主張し、196年代に行われた生体自己調整技法を齎すに至った。
前世紀中頃には、心理学者達は動物の行動は本能の果たす役割が大きい事を認識し、関心が行動から精神へと代り、研究範囲は認知心理学にとって代られる事となった。
行動主義は心理現象を科学的な方法論を確立した事と、認知行動療法の核心を為す部分として、行動療法は現在も色褪せる事無く輝き続けている。

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「情景をイメージするのを止めて、リラックスしよう」と叫んだジョセフ・ウォルピ [心理学]

20世紀前半を通して、心理療法はフロイトの精神分析に席巻されていた。

これは、不安は魂の奥深くにある諸々の力の葛藤から生じると主張する立場であった。

この葛藤は、個人の意識的及び下意識的思考双方及びそれらを形成した諸経験の長期に亙る内省的分析を通じてのみ軽減され得る。


だが、南アフリカ出身の精神科医ジョセフ・ウォルピは、第二次世界大戦中のPTSD(心的外傷後ストレス障害、当時は「戦争神経症」と呼ばれていた)による不安で悩む兵士達の治療に当る中で、精神分析に基く療法が自分の患者達を助けるのに何の役にも立たない事に気付いた。

この兵士達に自身の経験について語らせて見た所で、元々のトラウマに対する彼らのフラッシュバックを止める事も、彼らの不安を一掃することもできなかったのだ。

ウォルピは強度の不安の問題に取組むには精神分析よりもずっとシンプルで近道な方法があるに違いないと考えた。


ウォルピが思い至ったのは、イヴァン・パヴロフやジョン・B・ワトソンと言った行動主義者の業績であった。

これらの人々は、刺激━反応の訓練ないし古典的条件づけを通じて、新しい行動パターンを動物や子供達に教え込むことに成功していた。

詰り彼らは、ある対象なり出来事に対して、以前には感じられていなかった情動的反応を自動的なものにする事に成功していたのだ。

ウォルピは、もし行動がこんな風に学ばれるのであれば、学習なされないようにすることも可能なのではないかと考えて、この手法を酷いショックを受けた戦争古参兵に用いる方法を考案したのだ。


ウォルピが発見したのは、人間には同時に2つの相矛盾する情動状態を経験する事は出来ない事であった。

例えば、とてもリラックスした気分でいる時に、どんな種類であれ激しい不安を覚える事はありえない。

これにヒントを得て、ウォルピは患者に深い筋弛緩技法を教授し、更にこれを後に「逆制止法」として知られたある種の不安誘導刺激の同時的な提示と対にしてみた。


ウォルピの患者達は、先ず混乱を引起すように感じられる対象なり出来事をイメージするよう求められる。

もし、それによって不安を覚えるなら、「情景をイメージするのを止めて、リラックスしよう」と励まされる。

患者の恐怖心は、この手法によって段々と締め出され、患者は、以前は自身の経験によって悍ましい記憶が思い起こされる時には不安を感じてしまうように条件づけられていたのに対して、今や自身のそうした不安を、全面的にリラックスしていると言う、不安とは真逆の感情の方に注意を集中する事で━ごく短時間で━シャットアウトしてしまうように条件づけられている。


ウォルピの逆制止法は、患者の過去の分析等全くせずに、専ら症状とごく近い行動だけに焦点を当てる事で、脳を再条件下する事に成功した。

この手法は効果的であるばかりでなく、、直に効果を齎す物でもあった為、行動療法の領域に数多くの新しく重要な技法を齎した。

ウォルピ自身は、この手法を発展させて系統的脱感作プログラムを作り出し、鼠嫌いや飛行機嫌いといった恐怖症の治療に当たり、今尚この手法は広範に活用されている。

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徹底的行動主義から認知行動療法を導いたB・F・スキナー [心理学]

パヴロフやワトソンの条件付け理論を拡張し、徹底的行動主義に議論を定着させ、積極的のみならずネガティブな条件付けに迄議論を発展させたB・F・スキナーは綿密な科学的方法論により、行動主義の理想的代弁者となった。

スキナーの実験は内にモルモットが押す特別な棒を取り付けたスキナーボックスによるものであった。

モルモットが棒を押す力を自動計測して、モルモットがどれだけの関心を以て押しているか計測記録出来る。


棒を押した時に食餌を与える事になっていて、様々な条件設定で以てモルモットの行動を監視した。

食餌を得ると言うポジティブな試験に止まらず、棒を押せば流れている電流が止まるネガティブな反応に対しても試験をする事によって、現在の学習に影響力を持つネガティブな強化とポジティブの強化を調整するオペラント条件づけによる行動の「形成」に到達した。

これは、自然淘汰の理論と似通っていて、「ある人物の行動は、当人の遺伝的・環境上の経緯によって支配される」と結論付けた。


スキナーは自身の娘に対する教育に対する関心から、ティーチングマシンも考案した。

これは各段階毎に子供達を褒めて、その学習意欲を促進させるものであり、後になってコンピューターの独習プログラムに応用されている。

試験動物をモルモットから鳩に変更して、自身の見解の実践的応用に応えることを試みだした。


スキナーは自身の行動主義的アプローチに忠実であり続け、自らが採用した心理学の1部門の為に「徹底的行動主義」という名称を考案した程であった。

その著作『自由への挑戦』の中で、スキナーはもっと先迄行動を象っていくという考えを持ち出して、自由意志と決定論との間の哲学的論争を復活させた。

しかし、脳神経科学の新しい跋扈で、この徹底的行動主義は色褪せたものとなり、心理学の焦点は認知心理学へと大きく舵を切るが、時代を経た現代になって、スキナーの業績は鮮やかさを増している。


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