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「無意識は他者の言説だ」と言い放ったジャック・ラカン [心理学]

精神分析者は、無意識とは私達が棚上げしておきたいと願う全ての記憶が貯蔵されている、意識レベルに回収し得ない場所で、時に意識自身に語り掛けるが、それは極めて制限されていて、カール・ユングの考えでは、自らを示すに当って、原型の言語を借りてきて、夢やシンボルを介して自己を覚醒させ、フロイトによるなら動機づけられた行動とたまさかの「言い間違い」を通して表現され、他精神分析学派が一致するポイントは意識的自己によって保持されているよりも、遥かに大きな面積を占めていると言うことだ。

私達は、ともすれば自己の観念を自明視しがちで、誰もが互いに区別される異なった存在として暮らしており、自分の眼を通して世界を理解しているという考えは、他者及び周囲世界から私達を隔てる境界があるという通念と結び付いており、環境との相互作用を保持するスタイル及び思考という点で、自分が他者から切離されている事を前提とするが、自分から切離された存在として認識しうる存在等外部には無いとしたらどうだろうか。

その時、思考の対象とすべき輪郭を持った存在等どこにも見出せなくなり、私達は自分の自己という感覚を概念化し得なくなり、自分が周囲世界から切離されている事を明示する為に私達が個人として行使し得る唯一の手立ては、自分が周囲からも「他者」からも切離されていると認知する自身の能力以外に無く、この能力のお陰で、私達は主体の「私」となり得、ラカンは私達の1人ひとりが「自己」であるのは、私達に「他者」の観念が備わる限りの事だと結論した。


カランの考えでは、大文字の他者とは自己を超えた所に位置する絶対的他者性で、私達がその中へと生れ落ちる環境であり、私達は何とか生延びて行く為にはそれを「翻訳し」、意味の通るものにしなければならない。

幼児は、感覚を概念とカテゴリーへと翻訳する術を学ばないことには、世界の内で然るべき役割を果たせないが、それを幼児は、一連のシニフィアン(記号乃至コードを意味する)に気付き、それを理解してゆく過程を学ぶ中で行うが、これらのシニフィアンは自己を超えた所に位置する外界から私達に到来するものであり、だからそれらは既に他者の言語によって、ラカン好みの用語を用いるなら、他者の「言説」によって形作られている。

私達は言語を介さない事には、思考する事も考えを表現する事も敵わず、私達が所有する唯一の言語とは、ラカンに言わせるなら、他者の言語であって、私達の無意識の思想へと翻訳される感覚とイメージは、この他者の言語によって構成されるより他なく、ラカンの表現を借りるなら、「無意識は他者の言説」なのだ。


このようなラカンの考えは、精神分析の実践に幅広い影響を与え、無意識についての一層客観的で開かれた解釈の可能性を開いていった。

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